闘鶏神社内の湛増・弁慶の像

弁慶は田辺市で出生したという弁慶、父は21代熊野別当・湛増(たんぞう)、母は二位大納言の姫とされ、幼名を鬼若といいました。田辺を出た彼は比叡山へと修行に出向き、山を下りる際に自ら付けたのが、現在一般的に知られている武蔵坊弁慶という名前です。闘鶏神社には湛増・弁慶の像があります。

銅像の右側は、熊野水軍の統率者、熊野別当湛増は弁慶の父。義経の命を受け、弁慶は父を説得する。
湛増は白い鶏七羽と紅い鶏七羽を闘わせて神意を確かめ、弁慶を先頭に総勢二千余人、二百余の舟で壇ノ浦に向かい源氏の勝利に大きく貢献したと言われまして、ここから闘鶏神社の名前になったそうです。

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